NPOコミュニオン国際コミュニオン学会

受講生の声一覧

わかちあい会

2021年

わかちあい会

「いきいき生きる」
今こうしてあるということに、感謝して過ごすと、笑顔になり、その笑顔の波動が周りをも明るくしてくれて、人ともつながっていく。皆さんと話していて、強く思えました。充実した時間でした。
・自分を幸せにすることが、自分の周りの人たちを幸せにすること。
・半分の水が入ったコップを見て、半分もあると思うか、半分しかないと思うか。自分の思い方次第で、人は幸福にも不幸にもなる。
・人の想像力は無限で、イメージや思いは人それぞれ違って、その違いが非常に面白い。
・自分は絵を描くのが苦手なのだが、わかちあい会ではみんなが自分の絵を認めてくれるので、描く勇気をもらえた。

「いきいき生きる」
今こうしてあるということに、感謝して過ごすと、笑顔になり、その笑顔の波動が周りをも明るくしてくれて、人ともつながっていく。皆さんと話していて、強く思えました。充実した時間でした。
・自分を幸せにすることが、自分の周りの人たちを幸せにすること。
・半分の水が入ったコップを見て、半分もあると思うか、半分しかないと思うか。自分の思い方次第で、人は幸福にも不幸にもなる。
・人の想像力は無限で、イメージや思いは人それぞれ違って、その違いが非常に面白い。<

わかちあい会

2021年

わかちあい会

「波と一緒になって」
ここでの波って、「なんかの比喩として使われてるのか?」私はどうもそうゆう比喩に結びつけて考え、解釈したくなります。と、そんな自分に気が付きました。と言うか、大体、既に擬人化してるし、例の人も例えで話したと聞いているし。です。
「決して眠らない」と言えば、人間の「想念、感情」も眠らないかな?深い眠りの時も、レム睡眠の時も結局、機能してて「決して眠らない」でしょっ。しかも、毎日毎日、眠らないだけで無く、今生だけでなく、そうで。皆それを知ってるようで忘れてるのか?そんな風にして、私たちは今日、遙かなる時を過ごして、ここまで来てるらしい。
想念とか思いとか感情とか、人の内面で起ってくるものは、止まれない。波の様に「眠らない。」そして、永遠に続いて「とどまる事を知らない」。それを砂浜に座って今ここで見ている。何億年も前から、波は永遠に打ち寄せて来てる。以前は波の中にいて時々うねりに巻き込まれる事が多かった。いや、今でもそうだ。今という時間軸だけで無く、三次元的にも、地球は、丸くないはずで、ずっと海は永遠に平らで、端はなく続いている。その遙か彼方から波はやってくる。永遠の彼方からやってくる。
凪いでいる時も、うなり狂っても、見た目は違えども、すべての波は、本質的には同じ塩分濃度の塩水。風があるとき、波は騒がしく、でなければ穏やかで過ごしやすい。しかし、地震の時は時に、津波になるけど、荒ぶっているのは表面だけ、ほんのちょっと深く潜って行けば魚たちは、そんなの関係ねーと泳いでるだけ。そもそも、深海魚たちは、波の存在も、海水の存在さえ意識する事なく泳いでる。比較対象がない。「空気という物がある」と長老の深海魚が言う。若い深海魚達は信じられない。空気を見ようと冒険に行った深海魚で、戻ってきたものはいるのか?皆、破裂してしまったのか?それとも水圧の軽快さで、「もう私には駄目、重くないと。」と戻って来たか?愛しかない世界では「愛」のなんたるかが分からない。波は、探していた、「量的変化が質的変化をもたらす物」として、良い例に出会えた気がしました。
桃源郷にいるような生活の中、つまりはいつも凪いでいて、深い入り江の穏やかで荒れる事のない波ばかり見ていると、時には荒ぶる波に会いたくなるのか?と言っても、思い出せば、そんな大波に何度か見舞われ、天と地が分からなくなるほどパニクって、情緒も不安定になり、そんな経験から、結局、面従腹背の浮き袋を覚えて行って溺れずに生きながらえて。でも、そんな風にしてでも、荒ぶる波に巻き込まれないと、ニカワでくっついたプライドも欲も洗い流せないのか?と思いました。だからって、荒ぶる海にあえて船出はしたくない。怖い。世界一周ヨットの単独行も夢とロマンの中での困難なので、彼の苦悩に比べたら辛いことじゃないかなって思えました。いや、実は、深いところでは同じ船出かも。
今日はずっと心がザワザワしていて、瞑想もなかなか出来ずにいたのですけど、瞑想の最後のほうに、沢山の星が輝く宇宙空間と一体になって、穏やかな波に揺られる自分が見えて、とても気持ちが安らぐことが出来たのがとても嬉しかったです。
心がザワついているときでも、ゆったりくつろいでいる自分がいるんだということに気づきました。
これは理想ですけども、心がザワついていてもそれに巻き込まれずに、それを楽しめるくらいの自分でありたいなぁと思いました。
浜辺に佇み、寄せては返す波の音に耳を傾けていると、地球の鼓動に包まれているような安堵を感じました。しかし自然がいつも優しいわけではなく牙をむく時もあるのだと思うと、安泰を与えてくれる完全な場所がある訳ではないのだと、いつしか意識は自分の住む都会へと戻っていました。
どこであってもその場所で自分の在り方を見つけ続ける生き方をするとき、それがいちばんの安定なのではないかと思いました。
自然からひと時恵みを受け取り、自分の居場所へと、落ち着いた気持ちで戻っていけたように思います。
心の中が不安感などに支配されざわざわしている時はおおいなる存在からのメッセージ、大切なものはうけとれないと思いました。大病から回復された参加者から、例え、長く一緒にいられなくても共にいられる僅な時間に愛されたことは、そのかたを愛で一生を包み幸せで満たしていることを知りました。
「同じ様な事を話すのは、beingの世界に繋がり大切な事だから」beingの世界に繋がっていらっしゃるその方が、眩しく、その方の言葉が力強く胸に響きました。
わかちあい会後、その方の生い立ちが母と重なっていることに気付き、母の気持ちに寄り添うことに繋がりました。
有り難うございました。

「波と一緒になって」
ここでの波って、「なんかの比喩として使われてるのか?」私はどうもそうゆう比喩に結びつけて考え、解釈したくなります。と、そんな自分に気が付きました。と言うか、大体、既に擬人化してるし、例の人も例えで話したと聞いているし。です。
「決して眠らない」と言えば、人間の「想念、感情」も眠らないかな?深い眠りの時も、レム睡眠の時も結局、機能してて「決して眠らない」でしょっ。しかも、毎日毎日、眠らないだけで無く、今生だけでなく、そうで。皆それを知ってるようで忘れてるの

わかちあい会

2021年

わかちあい会

「錨をあげて」
自分の欠点、嫌なところは見方を変えればよいところなのだと気がつきました。私はあれこれやりたいことがいっぱいあって、いろいろなものにすぐ手を出してしまう、参加してしまうのですが、つまり自分で自分をあっぷあっぷ、忙しくさせているのですが それが自分の元気の源なのだと思うことができました。

「錨をあげて」
自分の欠点、嫌なところは見方を変えればよいところなのだと気がつきました。私はあれこれやりたいことがいっぱいあって、いろいろなものにすぐ手を出してしまう、参加してしまうのですが、つまり自分で自分をあっぷあっぷ、忙しくさせているのですが それが自分の元気の源なのだと思うことができました。

わかちあい会

2021年

わかちあい会

「私と仲良し」
深呼吸したり、静まったりして「生きていて良かった。」と思えた時について思いめぐらせました。27年前の交通事故で「私は生きている。有難い。」と思ったことを思い出しました。そんな体験も日常生活にかき消されていましたが、命があることだけで尊いことだったんだと改めて思い返しました。「『私は本当に人生を全うした。』と感じながら死んでいくことができるでしょうか・・・」ということを分かち合っているうちに、自分がありのまま感じていることを認めること、自分自身として居留まることが自分と仲良くなることであり、最終的にそのように死を迎えることができるのではないかと考えていると、自分自身であることは、それだけでとても尊いことなんだと実感することができました。普段は自分自身をあれこれジャッジしているので、初めての実感でした。
「人生を全うした」と言って死んで行くことが出来るためには、どういう人間になったら?と言う問いがまずありました。
他のコースでも「どんな自分になりたいか?」を発表した事がある気がします。「人の思惑に左右されない自分になりたい。」「いつも明るく元気な自分でいたい。」「自然の美を感じて生きて行きたい。」とか、「いつも人に優しい自分でいたい。」とか人の数だけ限りなく出てくる様な気がします。でも、皆、理想像なので、そこに到達、維持するためには、大変だと思います。なのであんまり気を入れすぎると、現実とのギャップに苦しむ事になりそうです。そして、そうなると、そんな自分が嫌いとか、なかった事にして心を隠蔽とかしてしまう、と思いました。
しかし、テキストでは、その後に、「人生を全うした」と言って死ぬためには「自分自身と仲良くなること」と答えのようにありました。(と感じました。)で、今度は自分自身と仲良くするためにはどうするかと言う事でどうなんだろうと思いました。取りあえずは、自分に対して「傾聴基調」で、かなと思います。自分を審判しない。批判しない。非難しない。責めない。叱咤激励しない。さらには、褒めない。ただ、あるがままの自分を認めてあげる。ただ、寄り添う。一緒にいる。自分のBEINGだけを見ていく。ってそんなところかなと思いました。まあ、それにしたって「自分と仲良しの自分」になるっていうのも理想像かもしれませんが、仲良しになるのは「度合い」にかかっているとわざわざ書いてくださっているので、「度合い」次第で、葛藤は起こりにくい気がします。
「仲良しの友達だからこそ、厳しいことをいうけどさ~」なんてのは、無しで、ただ一緒に奈落の底まで付いてってあげるよ。って感じなのかなと思いました。
参加後にいろいろなことが湧いてきました。皆さんのお話からたくさんのものをいただいたからなのでしょう。「私はほんとうに人生を全うした」と感じられるかどうかは、"いま、この時の自分を生きる"ということと結びついているのかなと感じました。一昨年体調を崩したこともあり、人生の行き着く先が死ではなく、ある日突然生から死へと移ってしまうこともあるのだと感じてから、なんでもない日常を以前より愛おしく感じるようになりました。時々「私はほんとうにこれで死んでもいいと思えるほどいま生きているか?」と自分に問うてみていると、ああでもないこうでもないと常にもやもやしたものが渦巻いている自分が、"いま、この時の自分"にすっと集中できるような感じがします。先のことは今の延長線上にあり、その延長線がどこまで伸びているかもわからないいま、自分に足りないものに煩わされている場合ではないなと、なんかボロボロといらないものが剥がれて、等身大の自分に立ち返ることができるような感覚?でしょうか。そんな時こそ何ものにも替え難い充実の中にいるのかもしれないです。そんなふうな感覚を時々ふっと持てるようになったのは、幸せなことだなあと思いました。ありがとうございました。

「私と仲良し」
深呼吸したり、静まったりして「生きていて良かった。」と思えた時について思いめぐらせました。27年前の交通事故で「私は生きている。有難い。」と思ったことを思い出しました。そんな体験も日常生活にかき消されていましたが、命があることだけで尊いことだったんだと改めて思い返しました。「『私は本当に人生を全うした。』と感じながら死んでいくことができるでしょうか・・・」ということを分かち合っているうちに、自分がありのまま感じていることを認めること、自分自身として居留まることが自分

わかちあい会

2021年

わかちあい会

「あなたの中に小さな子供がいます」
苦手なテーマをあえて選びました。いつも私の中の子どもは幼稚園の時の私で、バスケットを持って、白いフリルのついたエプロンをかけ、楽しそうにしている小さな子どもでした。今日その子どもは、「いつも頑張っているね」と私の頭をなでてくれています。だんだん絵を描き進むにつれ、その子どもが私の亡くなった母になりました。事実、母はいつも私を守ってくれている実感があるからでしょうか、母が私の頭をなでてくれています。そう思っていたら、私が学生の頃、父がいつも私をほめてくれていたことを思い出しました。両親の愛に支えられて、生かされている私、これからもこの私を大切に、両親の気持ちに添えるよう努力してまいります。私の中の子どもが母に代わり、そこから父の姿を思い出し、心温まる時間を過ごすことができました。感謝の気持ちでいっぱいです。ありがとうございました。
瞑想して絵を描いて、そして皆さんに話を聞いて頂くやり取りの中で、今の自分に「それで良いよ」と言ってあげることができるようになって行くように感じました。皆さんの大切な人とのエピソードを伺うことで心の緊張がゆるんで優しい気持ちになりました。良いメッセージや絵は人の気持ちをほっこりさせてくれますね。わかちあい会ではアイスブレーキングも含めて良いことに焦点を当てられるので、参加すると心と体がゆったりできます。ありがとうございます。
瞑想中に4〜5歳のころの自分の写真パネルを思い出し、自分の中の小さな子供は自分のことなのかも知れないと感じました。その写真パネルは夏の暑い日に両親がプールに連れて行ってくれたときに撮ってくれた写真を引き伸ばしたもので、両親の愛情を受けていたことを思いだしました。写真パネルは父が壁に掛けて私が中学生ころになるまで飾られていて、私はその写真パネルを見ながら成長していったわけですが、逆に4〜5歳の自分に成長を見守られていたのかもしれないと思いました。そう考えると、両親に対してだけでなく、成長する過程で私に関わってくれた方々(親戚や近所、学校の先生や友人たちなどなど)に育てられるのを、4〜5歳の私が見ていたのかもしれないと思うとなんだか不思議な感じがするとともに、感謝の念で幸せな気持ちが湧き上がってきました。
絵を描いたり、お話しさせていただく中でいろいろと気づくことができました。小さな子供が喜ぶ明るい未来を選択していければと思います。ありがとうございます。
私の中の小さな子供は、安心して私と一体化して、自然の中に溶けて風になって優しく頬を撫で、雲の中でふんわりとした居心地の良い中眠っているようです。先日(21日)参加したわかちあい会で心が解放され変化したことを今回知ることができました。わかちあい会に参加しその都度鎧が一枚一枚剥がされていく、楽しみです。

「あなたの中に小さな子供がいます」
苦手なテーマをあえて選びました。いつも私の中の子どもは幼稚園の時の私で、バスケットを持って、白いフリルのついたエプロンをかけ、楽しそうにしている小さな子どもでした。今日その子どもは、「いつも頑張っているね」と私の頭をなでてくれています。だんだん絵を描き進むにつれ、その子どもが私の亡くなった母になりました。事実、母はいつも私を守ってくれている実感があるからでしょうか、母が私の頭をなでてくれています。そう思っていたら、私が学生の頃、父がいつも私をほめ

わかちあい会

2021年

わかちあい会

「美しい眺め」
2度目のテーマでした。前回では鳥を迎え入れる樹の立場になって描きました。飛来してきた渡鳥たちを迎えるために、沢山の実と花を描きました。今回は疲れてやっと辿り着いた渡鳥と自分が重なったので、鳥の気持ちになって描きました。この一年間のコロナ自粛生活のなかで、自分はちっぽけな存在だということをおもい知り、視点が変わったのです。今までは 癒す=おもてなし の感覚で、doingで動いていたようです。今日絵を描いてわかったことは、疲れた者が求めているのは、いつでも受け入れてくれる安心の場所がある事、beingを望んでいたのです。今の私は疲れた身体を寄せる場所、大樹の1枝を見つけた気持になっています。その大樹がコミュニオンなのでしょう。
絵を描きながら、私は自分が何を感じ何が言いたいのだろう?とクレヨンを持っていました。そして絵を説明しながらも、今の自分とは正反対の理想だけを口にしている!と悶々としていました。それが、皆さんからのフィードバックで、私のモヤモヤしていた心の中を言葉にしてプレゼントして頂いたようでした。こんな経験は初めてでした。
わかちあい開催のためにZoomで接続したら、自分の画面がいきなりオーロラになってしまい焦りましたが、初めてのことなのに不思議と落ち着いて対処できました。瞑想でやってきたイメージは前にアクティブリスニングで浮かんだ大きな樹でしたが、樹に向かって感謝の気持ちが湧いたり、登ってみたいと思ったりと、これまではただ眺めているだけだったのに、今回は自分から働きかけをするような感じで、なんだか一緒にいるような、そんな感じがしました。テーマは木がそっと手を差し伸べる、そのようなやさしさを描いた詩だと思うのですが、そっと差し出すような気遣いにはとても共感が持て、いいなあと思います。わかちあいの時間では、自分が感じたこと、思ったことを言葉にしてフィードバックしましたが、私が発した言葉で相手の方が気づくのをみると、これまで学んだことが活かせているのだなあ、とか、技術が身についてきているなあ、と思いました。話しを聴いて自分が気づいたことを相手に気づいてもらうのにフィードバックを使うのが自分らしい聴くスタイルだと思っています。ただ、それは操作的で押し付けがましく、最上のスタイルは河合隼雄さんのように何も言わず寄り添うだけで相手が気づきを得る、そう思っていました。でも、フィードバックで気づきを得てもらう自分のスタイルも、今日のテーマの木の在り方に沿っているのだと思いました。
詩の朗読が自分の中のイメージを膨らませてくれて、絵を描くのはあまり得意ではないのですが、スムーズに描くことが出来ました。そのことに自分でも驚きました。
また、皆さんからのフィードバックで、自分で気が付かなかった内面に気付くことが出来ました。私は、自宅から見える大きな木を描いたのですが、その木は空につながっていて、その木は、遠く離れた空と自分とを繋げてくれる存在なのだというイメージを持ちました。その木に3羽の鳥を描いたのですが、なぜその鳥を描いたのかと聞かれ、私は3人の子供たちを描いたのだと気が付きました。末っ子がこの4月から東京の大学に行き、4月から夫と二人だけの生活が始まります。子供たちは空に向かって飛び立っていくけれど、それは遥かかなたではなく、この木を通じて繋がっているから大丈夫なのだと、心は穏やかで安心した気持ちに包まれました。
また、皆さんの描かれた絵とその想いを聞いて、人それぞれこんなにも感じ方が違うのかと驚きました。日本人は個性が乏しいと言われますが、いやいやこんなにも個性的で、豊かな感情があるのだと実感しました。
この会への参加は2回目なのですが、1回目でも短い文章を渡されてびっくりしていたのですが、今回はもっと短い文章でまたびっくりしました。
メールで文章が送られてきて、目を通した時はなんとも思わなかったのですが、今回の会で聞いて、考えて、描いて、話す中でこの短い文章がドンドン膨らんでいって、それは1人では見れない世界だったなあと、改めて思いました。
また、今回書いた絵は自分のだらしない部分で、そういったものはやはり人前に出ないようにするものですが、そうやって自分の中の本当の部分に嘘をつき続けるとしんどくなってしまう。
いつもちゃんとピシッと背を伸ばすことばかり意識していましたが、もっと本当の素直な自分の気持ちをありのまま出すことも意識しなければいけないのかもしれないと、今回の会で思いました。

「美しい眺め」
2度目のテーマでした。前回では鳥を迎え入れる樹の立場になって描きました。飛来してきた渡鳥たちを迎えるために、沢山の実と花を描きました。今回は疲れてやっと辿り着いた渡鳥と自分が重なったので、鳥の気持ちになって描きました。この一年間のコロナ自粛生活のなかで、自分はちっぽけな存在だということをおもい知り、視点が変わったのです。今までは 癒す=おもてなし の感覚で、doingで動いていたようです。今日絵を描いてわかったことは、疲れた者が求めているのは、いつでも受け入れてくれ

わかちあい会

2021年

わかちあい会

「夢は実現する」
皆さんの夢の話を伺いながら、それぞれがそれぞれの夢に向かって進み出してると感じた。 夢を意識して発表する事が夢を引き寄せて進ませていく第一歩なのだから。
私は小学四年生の時、祖母から将来下手な結婚はしない方が良い。それよりもしっかりした資格を取って職業に生きればよいと言われて、教員になろうと決めた。その夢に向かって一途に進んだ。子供達と教育という場面で出会う楽しさをいっぱいもらえた。今現場を退き、やってみたい事は祖母や母 の人生史をひもときながら自分を振り返り、生きる事の尊さに触れようとしている。三代史を書くのを考えている。また、たとえ何かを成し遂げられずとも、穏やかな日々を過ごせる恵みに感謝して生きるとい
うのは、すごい事なのだとも思わされた。有難うございます。
夢は漠然としたもので、言葉にすることは難しいと感じていました。しかし、今回のわかちあい会のテーマに沿って自分を内観し、絵を描き、わかちあう為に思いを
声にして発すると、“自分はこうありたい”と少しでも具現化出来たことで、夢が近づいて来るような気がしました。そして、言葉を声にして発することは、人生を豊かにするきっかけとしてとても大事なことではないかと感じました。
コロナ禍にあって、人とのコミュニケーションが絶たれてしまいやすい今だからこそ、わかちあい会のような身近なテーマで思いを話し、聴くことの出来る場があることが有り難いです。参加された皆様の夢を聞かせていただいたことは、私には大きな心の糧になりました。あっという間の2時間、皆様と共に過ごすことができましたことに、心から感謝いたします。ありがとうございました!
自分の中に思い描いているものを具体的に表現すること、そして他の人にシャアすること、さらにフィードバックを頂くことにより、自分の夢に対する具現化のパワーがドンドンと、バージョンアップしていくように感じられました。そしてまた皆さんの夢を聴くことで、あらたな発見や気づきが生まれ、みんながそれぞれの場で、自分の夢を信頼し、それに向かって努力してゆくことが、この世界を、地球を、光輝かせ、あらたな時代を創造してゆくのだなあとも感じ、とてもワクワクしました。 新たな年の始まりの時に、このような素晴らしいテーマで、分かち合い会に参加できましたこと、本当に嬉しく、心より感謝しております。いろいろと準備してくださったスタッフの皆さん、本当に有り難うございました。心からの感謝をこめて\(^O^)/
このコミュニオンに出会った頃、今日のテキストの「夢は実現する」にも出会いました。その時の自分にとっての「夢」は何だったのだろうかと思い返し、その頃を懐かしく思い出しました。
文中にあるように「苦しみの最中、夢を描くことなどとてもできない」という気持ちをぬぐえない私でしたが、それでもその言葉を信じることから始まりました。
その時は、目の前の事柄が夢であり、資格を取ることとか、願っていた職業に就くなどでした。今では、この数年ずっと望んできた、「静かな自分になる」ことが夢です。
心が静かな時、しみじみと良いなぁと感じられるその時、幸せ感に満たされます。このわかちあい会に臨むとき、自分を解放し、奥深くにある自分に気づきたいと思って参加しています。また今日は、皆さんの夢を伺っているうちにその方らしさが良く伝わってきて、楽しい時間でした。 
もう長く生きて来て、今更夢の実現でもあるまいとテキストをいただいた時は思っていました。でもわかちあい会でテキストを読み進み、「未来は夢の美しさを信じる人のもの」というフレーズに心を打たれました。私の夢は、雪の中を馬の曳く馬車、スレイで風をきって走りたい、というものです。真っ青な空、雪はキラキラ輝いている、暖かい毛布をかけて隣には私の愛する人が座っている。 「夢の美しさ」という言葉で私の脳裏に浮かんだのはこのような光景でした。ワクワクしました。いつまでも夢を持ち続けましょう。夢は実現すると確信しました。

「夢は実現する」
皆さんの夢の話を伺いながら、それぞれがそれぞれの夢に向かって進み出してると感じた。 夢を意識して発表する事が夢を引き寄せて進ませていく第一歩なのだから。
私は小学四年生の時、祖母から将来下手な結婚はしない方が良い。それよりもしっかりした資格を取って職業に生きればよいと言われて、教員になろうと決めた。その夢に向かって一途に進んだ。子供達と教育という場面で出会う楽しさをいっぱいもらえた。今現場を退き、やってみたい事は祖母や母 の人生史をひもときながら自分を振り返

わかちあい会

2020年

わかちあい会

「今日、小さな一歩を踏み出します」
「あなたが今本当にしたいことは何ですか。」「自分はどうしたいですか。」を知ることは、私が大切にしなければならないことだと最近気づいていたので、今回の内容に共時性を感じました。瞑想の中で「あなたがしたいことは何ですか。」と問われた時に、市内の本屋さんの大きなハンモックに揺られてのんびりしたいなと感じました。自己実現とか達成という内容に関わらず、何だか小さいことだなと感じもしましたが、そんな小さいことだからと私は今まで大切にしてこなかったし、他のことを優先してきたと思いました。
・「実現したらどんな気持ちになりますか。」で絵を描きました。春の草原に座り込んでいる幸せそうな私でした。「あなたは、どう感じたのか。」「あなたは、どうしたいのか。」自分の心に訊ねることを目標に、小さな一歩を重ねていきたいです。描いた絵を冷蔵庫に貼って、幸せな自分を意識して生活したいと感じました。
フィードバックを頂き、改めて気づきました。
「良い人になろう」とそこに一生懸命になり過ぎず、「自分が幸せになる」ことを目指せばいいのかな、と思えたことが、今日の大きな贈り物でした。
今日のテーマは、自分が一番望んでいることは何かを知り、第一歩を今日始める、でした。
「周りの人たちと仲睦まじく関わり過ごしたい」それが私が幸せになる内容であり、望んでいる事です。
それを目指すことは、相手の身になってその人の気持ちを汲み取ろうとしたり、優しさを持てることにもなると気づきました。
最近の出来事と重ね合わせ、皆さんに聞いていただいたり、絵を描いたりして、自分の気持ちの整理が出来ました。
一年の締めくくりと、来年の目標を皆さんと分ちあえた良いひとときとなりました。
自分にとって、ゆっくりのんびりする時間が必要なのかな、と感じました。目標へ向かう時、自分の中にわきあがる力も感じました。他の人の絵を見ていて、ほのぼのとしていいなぁと感じたりもしました。瞑想中の自分が感じたイメージと同じような絵が描かれていて、共時性というものがあるのかなと思います。

「今日、小さな一歩を踏み出します」
「あなたが今本当にしたいことは何ですか。」「自分はどうしたいですか。」を知ることは、私が大切にしなければならないことだと最近気づいていたので、今回の内容に共時性を感じました。瞑想の中で「あなたがしたいことは何ですか。」と問われた時に、市内の本屋さんの大きなハンモックに揺られてのんびりしたいなと感じました。自己実現とか達成という内容に関わらず、何だか小さいことだなと感じもしましたが、そんな小さいことだからと私は今まで大切にしてこなかったし、他のこと

わかちあい会

2020年

わかちあい会

「一人ひとりが光の存在」
人はいろいろな光を放ち、人はいろいろな光を受けながら生きている。今日、参加の方からのお話を聞いて、その中の一人が闇の中からの光を絵に描いている。そうだ、光だけを感じるだけではいけない。光のない、闇も見なければ闇も感じていなければならない。闇は怖い、しかし見つめなければいけないと思いました。
すべて良しとされている神の愛の存在であることを忘れずに、自分を大切にする。そして、今はまだ分からない、私の好きなところをいつか言えるようになる。世界は光️で溢れている。それは、私次第でその輝きを受け輝き、また周りを照らし輝かせることができる。と思いました。
クリスマスのわかちあい会でその日がお誕生日の方にアニメータの提案で皆様でバースデーの合唱をし、私の心に光がさしました。幸せなクリスマス、わかちあい会でした。有り難うございました。
日常での会話はどんなに楽しくても、周りを気にして自分を制御します。それは現実という世界の住民である以上仕方のないことで、自分とその周りでのよい塩梅になるように駆け引きをする感覚に近いと僕は思います。
ドッチボールで遊んでいて、相手に対してボールを投げつけるというのは、ドッチボールというルールの中では当たり前だとしても、現実での中ではやはり攻撃的な行為です。ドッチボールという遊びが終わったとしても、「あいつは沢山いるメンバーの中で私を狙った」という痕跡は現実に残ってしまう。だから、ドッチボールという遊びの中でさえ、純粋に遊びに向き合うというのは難しいことだったりします。
こういう曖昧で複雑なコミュニケーションの中で、私たちは生活していると僕は考えています。
この日常との会話とは違った、良し悪しとか、周りにどう思われたいとか、そう言った現実のしがらみを取っ払った、もっともっと深いと言えばいいでしょうか。よくわかりませんが、今回のわかちあい会でのワークで僕は純粋な会話を楽しめたように思います。短い文章に対して、ゆっくり自分の中へ溶けこましていき、普段では見えない根っこと向き合う感覚。その自分の生に近い部分を、緊張しながらも絵と言葉で外側へ出す感覚。それに対して自分の中にはない、別の角度から他の方への言葉を受け取る感覚。この会話というのは日常の中ではできないことだと思いますし、一人でやれることでもない。そういう貴重な空間で時間を過ごせたのはとても面白かったです。

「一人ひとりが光の存在」
人はいろいろな光を放ち、人はいろいろな光を受けながら生きている。今日、参加の方からのお話を聞いて、その中の一人が闇の中からの光を絵に描いている。そうだ、光だけを感じるだけではいけない。光のない、闇も見なければ闇も感じていなければならない。闇は怖い、しかし見つめなければいけないと思いました。
すべて良しとされている神の愛の存在であることを忘れずに、自分を大切にする。そして、今はまだ分からない、私の好きなところをいつか言えるようになる。世界は光️で溢れて

わかちあい会

2020年

わかちあい会

「困難を飛びこえるのではなく、くぐり抜ける」
・自分の中の空を見つめていた私にとって「自分は空っぽなので、すべてイエス様にお任せします。」というテレーズの生き方をこれから味わっていきたいと感じました。私の永遠のテーマになります。小さいことの良さも感じました。彼女は小さいけれども本当は強い、苦難を受け入れようとするしたたかさも感じました。
・今、人とつながっているという感じをもてなかった私にとって、「ああ、ちゃんとつながっていたんだなあ・・」と実感しました。初めて会った方であったし、年齢も置かれた環境も全く違うのですが。
・「今まで自分をいじめていたなあ。」「苦難を受け入れてきた犬が出会う人を癒す存在になっている。」「日本一の富士山が、大山で見えなくなっている。立ち位置を変えれば、見えるようにもなる。」「感じることが大切だと思ってきた。自分自身を大切にする、あるがままに受け止める。」等々参加している方々の気付きが私にとって大切なものになりました。同様に私の気付きも波動のように人につながっていくのだなあと思いました。
・スタッフの方々のご協力のお陰で参加することができました。有難うございました。
くぐり抜けるにはってので、小さくなるためには、どうするか?ってことで、身体を小さくするわけでは、ないので、心を小さくする為には、心のお荷物の「プライド」を捨てること、ってのが、あった
、これは、殆ど、できない事。捨ててると思ってたのに、ある日、防御シールドの隙間をくぐり抜けてきた侮辱に対しては、反応してしまい、捨てられていなかった事に気づかされたりする様です。「べき」を捨てる事。特別な出来事にあわなくても、例えば、タイタニックに乗り合わせて、救命ボートの最後の一席を譲るかどうか、とか、でなくても、もっと普通にある、人としての行動での、「人間なら、当然そうすべき」の「べき」も、捨てがたいです。「挨拶すべき」とか、「謝るべき」それから、最後には、「自分を捨てて」って言うやつ。全てを大きな存在に委ねて。そうやって、空っぽになって、はじめて、困難をくぐり抜ける事が、できるなんて言うことを思いました。
こう考えると、くぐり抜けると言うより透過って感じです。まあ、死んでも仕方ないなって重い覚悟では、なく、軽い乗りで思いながら、鋼鉄の固まりの様に、横たわる困難を、もし、飛び越えるならは、「プライド」も、「べき」も持ったまま、飛び越えるのでしようが、くぐり抜けるとなると、自分自身を捨てて、空にならなければ、駄目なんでしょうと思い。そんなこと、殆ど誰も出来ない。4回転ジャンプできるレベルくらいのもので、1回転も、出来ないのに。
で、聖テレジアは、知りませんでしたけれど、羽生結弦ばりの訓練、試練、鍛錬、生まれつき素質、過去生とか、あってはじめてできると思いました。一般人は、「プライド」も、「べき」も捨てられず、委ねる事もできるはずない、と思いました。結局、通常に、慣用句的に言われる困難を「乗り越える」との違いをこんな所にある様に思わされました。深いなと。そして、絵空事の様な御伽話。一般人では、出来ないでしょうね!諦め気味に思いました。
アニメーターの方から、最後に、「結局、どうやって小さくなってくぐり抜けるんだろう」と言う問いを出していただいたので、こんな風に、思い、考えました。
困難にあった時、心構えとしてくぐりぬけるということがあると勉強しましたが、わきに置いておく、視点を変えて物事を見てみるという方法もあるという話し合いでなかでの言葉が印象に残りました。困難は、いざ目の前にあるととても大きな壁、乗り越えることができるかと思って人は立ちすくみとまどってしまいます。
私は、日常の中でずっとそのことばかり考えてしまうこ所があります。しかし、神様は乗り越えれない試練は与えられないし、beingの気持ちでありのままで感じることが大切で苦しみのおかげで晴れやかな気持ちを持てるとおっしゃていた方があり、そうだなと思いました。苦しみにも意味があるとそう思うようにしていきたいと思いました。心筋梗塞を患った後、「あとは登坂しかありません」とおっしゃった言葉が印象に残りました。

「困難を飛びこえるのではなく、くぐり抜ける」
・自分の中の空を見つめていた私にとって「自分は空っぽなので、すべてイエス様にお任せします。」というテレーズの生き方をこれから味わっていきたいと感じました。私の永遠のテーマになります。小さいことの良さも感じました。彼女は小さいけれども本当は強い、苦難を受け入れようとするしたたかさも感じました。
・今、人とつながっているという感じをもてなかった私にとって、「ああ、ちゃんとつながっていたんだなあ・・」と実感しました。初めて会った方であっ