NPOコミュニオン国際コミュニオン学会

受講生の声一覧

わかちあい会

2021年

わかちあい会

「大空の空気を吸う」
「鷲の心」になって、空を飛んだような気持ちになってみようと、呼びかけがあった。見えてきたのは、なだらかなうす水色の山並みを背景にして、青々とした木々、さらさら流れる小川、ひっそりと咲く花々、実りを待つ畑などの穏やかな自然だった。それはコロナ禍で久しく行けない安曇野の家の近くの光景でもあった。空高く悠々と飛ぶ鷲の近くからは光が注がれ、地上の生きとし生けるものを温かく支えていた。そういう平安な時、場が見えたのだった。グループに分かれて絵を見ながら話し合った時、皆共通していたのは、平安のうちにある喜びが表現されていたという事だった。
「鷲の心」とは何かをテキストに沿って考えていくとき、鷲に倣って目の前の困難な事態に埋没せず、何とかしようと四苦八苦してもがかず、神に重荷も望みも託して歩んでいくことかなと思えた。それは自然のあの平安な世界を目指して進むのと共通していた。
今私には学びを得る機会が次々と起こっているような気がしています。そして、その学びには「解放」というキーワードが共通しているのも大いなるものの図らいだと感じ、感謝でしかないように思います。今日のわかちあい会では、ブレイクアウトルームでご一緒になった3名の方のお話から、大きく力強く悠々とした拡い世界のチカラが伝わってきて、私も心のしこりを溶かして、もっと自由に羽ばたいてみたくなりました。他講座でご一緒するサブアニメーターの方が、私も含め参加された皆様の言葉を丁寧にフィードバックされていることが会の雰囲気を盛り上げることに繋がっているなと感じ、“さすが!”と思いました。今回も充実感に浸ることができた2時間でした。皆様ありがとうございました!
何故心乱れるのが嫌なのかなとも思いました。相手に批判され、落ち込んで、付随して「人にネガティブな顔を見せたくない」とか。自己のアイデンティティに反する「自分は明るい人」なはず。とか、で、批判されて暗くなってる自分を少しでも早く回復、復調させたいと。で、私の経験上では、疲れ果てていることを隠せない相手も存在したりして、ちょっとした仕草の違いを観察されたりして、すごいな~観察力。落ち込んだ心を隠すのはお手上げだな~と。一方全然気づいてない人もいて、そういう人に対しては「助かるなー」と思えたりして。結局、落ち込んだ自分を見せたくないという所からきてると思うんですけど・・・。「心の乱れを楽しんで観察しましょう。」なんて言えれば良いのですが、奈落に落ちていると必死になって、抜けだそうとします。もがき苦しんで見苦しい。でもそれが自分の姿でもある。(誰だってそう。僕だってそうなんだ♪)そして、それを、自分が経験して、体感したところから他者への愛や理解が始まると気づきました。
自分は鳥になったら、鷲じゃないよな~って思いました。肉食の猛禽類じゃないよな~と。せいぜい鳩とか、油揚げをかっさらうトンビだよな~。なんて。でも、それって自分に関しての枠を自分で創っていたなと気が付きました。私はわしです。

「大空の空気を吸う」
「鷲の心」になって、空を飛んだような気持ちになってみようと、呼びかけがあった。見えてきたのは、なだらかなうす水色の山並みを背景にして、青々とした木々、さらさら流れる小川、ひっそりと咲く花々、実りを待つ畑などの穏やかな自然だった。それはコロナ禍で久しく行けない安曇野の家の近くの光景でもあった。空高く悠々と飛ぶ鷲の近くからは光が注がれ、地上の生きとし生けるものを温かく支えていた。そういう平安な時、場が見えたのだった。グループに分かれて絵を見ながら話し合った時、皆共

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2021年

わかちあい会

「いつもとちょっと違った夕食を」
母がうつに沈んだ時、私が何とかしなければといても立ってもいられない苦しい日々を過ごしました。でも、ふと、「いくら私が頑張っても何とかしてあげられるものではないのだ、母が今生きているそのままの力を信じ、幸不幸の判断などせずにいよう・・・という気持ちが湧いてきたとき何か自分の気持ちがすっと楽になり、心が静まる感じがありました。人智を尽くして天命を待つといった心境でしょうか、起こることをただ自然なこととそのまま受けとめるしかない、と。それまで母のために役立つことばかり探していた私が、素直な心で接することができたことで真っ直ぐに伝わるものもあったようにも感じました。
祈りとは何なのか難しくて私にはよくわかりませんが、あの時、いい悪いではなくそのままの現実を受けとめ、計らいを信じようと思った心境は、祈りに近いものだったのかなと、わかちあい会の時間の中で振り返りました。ありがとうございました。

「いつもとちょっと違った夕食を」
母がうつに沈んだ時、私が何とかしなければといても立ってもいられない苦しい日々を過ごしました。でも、ふと、「いくら私が頑張っても何とかしてあげられるものではないのだ、母が今生きているそのままの力を信じ、幸不幸の判断などせずにいよう・・・という気持ちが湧いてきたとき何か自分の気持ちがすっと楽になり、心が静まる感じがありました。人智を尽くして天命を待つといった心境でしょうか、起こることをただ自然なこととそのまま受けとめるしかない、と。それまで母のために役

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2021年

わかちあい会

「解決の種も、自然に芽を出します」
あとになって見れば、あの時こうしていればと思えることでも、その時出来なかったことは、長い目で見れば意味があったのだと思えることが多いです。大いなる力の存在が、”足跡“の詩のように、いつもそばにいてくださっていたのだと今、感じています。その時々の自分のありのままを受け止め、信じて委ねてみようと思います。瞑想の中の「自分で自分を幸せにする力があります」の言葉が今日は特に心に沁みました。つい最近の出来事で少し元気をなくしていたので、今日、わかちあい会で話を聞いていただき、気づきを話せたことは、アニメーターの方、そして皆さまから頂戴したあたたかい数々のフィードバックとともに、自分の中に確かなものとして入り、元気が湧いてきました。どんな時も気が付けば見える”キラキラ“を日々感じていきます。心豊かなわかちあいのひとときを今日もありがとうございました。
これまで自分が培ってきた価値観を変えるのは難しく、中々、新しいことを受け入れられないでいる。今、目の前にある問題から逃げるのはやはり私としては正しくない生き方に思えてしまう。でも、どんなにその場にしがみついてもがき苦しんでも、辛い時間が増えるだけでしかない。それならいっそ「寝かせる」と言うのが正解かもしれない。(この期に及んでも正しいか間違っているかが私の判断基準)
どこかで「継続というのはずっと同じことを続けていくことだけではなく、何日か、何ヶ月か、何年後かに思い出してやったとしても、続けたことに間違いない」と言うような話を聞いたことがある。それも「寝かせる」状態かもしれない。私は「途絶える=投げ出したり、逃げてしまったこと」のようで罪悪感にとらわれていたけれど、一旦辞めても、またどこかで再開することも継続と言えるのであれば辞めた罪悪感にとらわれることもなく、休むことを逃避と考えないゆったりとした生き方ができるかもしれない、と思った。
また、絵を描いている時、頭の中でモヤモヤごちゃごちゃしているものの正体がつかめなくて膝を抱えてうずくまるしかない、と思っていたけれど、自分では混沌としか思えないものを「きれい」と見てくれる人がいた時、たしかに私が思っているより嫌な状態ではないのだと気づいた。そして、過去、辛くて苦しくて耐えられないと思っていた時も、自分の中に「いつか芽吹くであろう種」として眠っていたキラキラしたものがあったんだと思えた。思い出せずにはいるけれど意図せず放置せざるを得なかった時も「時」によって解決に向かったこともあったように思う。だったら、これからは悪あがきせず、キッパリ「ここは天に任せよう」と委ねて、自分の今を穏やかに過ごしていきたいと思う。
アイスブレーキングの全体発表で、かき氷についての思い出を伺っていて、それまで忘れていた、かき氷を作ってもてなして下さった亡き方達のことを思い出しました。その方達に頂いた愛が胸いっぱいに広がりました。有り難うございます。このわかちあい会参加当日には、抱えていた問題をコミュニオンのワークに参加し、傾聴して頂き昇華したと思っていました。しかし、前日に参加した、ワークのメッセージ、そして今回のテキストにより私はそっとねかせていることに気付きました。大いなる者は、私の痛みを背負ってくださっている。私がキラキラした美しい世界から離れないように。8月のすべてのワークが繋がり、絵を見せて頂きわかちあいにより、「起こることはすべてよし。良い悪いはなく。B-ingで繋がり、それぞれの人生を生きるアスリートである。」私に力を与えてくださいました。有り難うございます。

「解決の種も、自然に芽を出します」
あとになって見れば、あの時こうしていればと思えることでも、その時出来なかったことは、長い目で見れば意味があったのだと思えることが多いです。大いなる力の存在が、”足跡“の詩のように、いつもそばにいてくださっていたのだと今、感じています。その時々の自分のありのままを受け止め、信じて委ねてみようと思います。瞑想の中の「自分で自分を幸せにする力があります」の言葉が今日は特に心に沁みました。つい最近の出来事で少し元気をなくしていたので、今日、わかちあい会で

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2021年

わかちあい会

「ひとり林に」
立原道造さんが詩の中で表現された自然が今ここにもあるように感じました。わかちあい会でもそれぞれの参加者に必要なことが過不足なく行われたのだと思います。ものごとの陰で働く存在に感謝です。
フィードバックをたくさん頂いたおかげで、もう一度自分の内側にあらためてアクセスすることができた。たった一つの詩(フレーズ)が、それぞれの心の中でその人特有の壮大な物語になっていくのだと感じた。そして、その中身を共有していただけることで、また自分の中の物語が深く満たされていく気がする。今まで私はみなさんが時々口にする「自然と一体化」と言う感覚があまり掴めなかったのだが、今回、その自然の中に人間も含まれるのだと突然理解した。たまたま前の日に読んだ漫画「いいひと。」(高橋しん)の中に私たちが生きている場所が自然、つまり人間の中にいることが私たちにとって自然なんだ、というような場面があり、それとリンクしてストンと響いたのではないかと思う。花も鳥も木も草もてんとう虫も雲も空も、そしてその中にいる人間も誰かのために必死になって生きていなくていい、自分のために生きていくのが自然で、それが受け入れられるのだ、と。「歌うような静寂」はまさに神の祝福なのだ、と感じた。私はもう、祝福とともに大いなる自然の中にいた、ずっとその中にいたんだな、とうれしくなった。この世に存在しているものはすべての人に全く同じものであり、受け取り方が人によって違うだけなのだ、という事も深く心に染み入った。
私の周りにいてくださる全ての方に感謝いたします。ありがとうございます。

「ひとり林に」
立原道造さんが詩の中で表現された自然が今ここにもあるように感じました。わかちあい会でもそれぞれの参加者に必要なことが過不足なく行われたのだと思います。ものごとの陰で働く存在に感謝です。
フィードバックをたくさん頂いたおかげで、もう一度自分の内側にあらためてアクセスすることができた。たった一つの詩(フレーズ)が、それぞれの心の中でその人特有の壮大な物語になっていくのだと感じた。そして、その中身を共有していただけることで、また自分の中の物語が深く満たされていく気が

わかちあい会

2021年

わかちあい会

「偶然の中に意味があります。」
私のコミュニオンとの出会いは、誘われて講話会に参加したことです。きっかけは偶然でしたが、魅力を感じて通い続けることになり、それは自分ではっきり選んだことでした。
これまで自分でいろんなことを選んできたと思っていましたが、実はそういう環境にいることは偶然だと気づきました。コロナで、これまでの価値観がひっくり返るかのように、外に目を向けて動いていたのが、われに返ったような感覚があります。わかちあう中で気付きが深まり、コミュニオンでの学びや鈴木先生の言葉を思い起こし、自分を見直す時期にきていると思いました。
・コミュニオンの場にどうして招かれたかについて考えました。遠藤周作さんのエッセイを読んだことがきっかけでした。そこから鈴木先生を知り、コミュニオンの場で学ぶことに至っています。ある意味偶然の重なりです。その偶然がどんなに私の助けになっているか、自分と仲良しになることやエニアグラムなどを知らなかったら、今私を取り巻いている場は、どんなに辛いものであったことかと思います。コミュニオンで日々学んでいてもやっとこさ、という感じなのに・・・。
・大好きだったねこも思いがけずある日、偶然拾って、16年間一緒に過ごすことになりました。死んでしまいましたが、とても大切なねこでした。日々にやってくる偶然をきちんと受け止められるようにいたいものだと感じました。「そしてその偶然が、人生の意味を見つける手がかりになります。」この先生の言葉を黙想したいと思います。
今私がここにこうしているのは人生において岐路があったからです。その岐路は偶然に降りかかってきたかもしれませんが、私が選び取って来てこの道を進んできました。私が選んだということにおいて「偶然の中に意味があります」→「人生は必然である」というフレーズが妙に腑に落ちました。長いこと生きてきて、あと残り少ない人生を顧みてどうして私はいまここにこうしているのだろうと、不甲斐ない思いでいっぱいでしたが、自分で選び取ってきた道だったのです。この気づきはこれからの人生を生きていく上での力になります。悔いることばかりでしたが、もうそれはやめて、あと残り少ない人生を精一杯生きて行こうと思ったことでした。
これまでの道のりを振り返ると、必ずしも自分で選んだものばかりではなく、選ばざるを得なかったもの、半ば無理やり押し付けられたものもある。でももしそのようなものがなかったら自分にとって都合のよい想定内のものばかりで人生が成り立ってしまい、思いがけない恵みとの出会いを逃してしまったのだろうと気づいた。偶然のようにやってきた出来事のうちにあった深い恵みは後から後からその意味に気づくもので、きっと今まだ気づいてもいない偶然のからくりに守られているのだろうと思った。このようにひと時、自分の人生に佇んで振り返ってみることの大切さを改めて感じています。

「偶然の中に意味があります。」
私のコミュニオンとの出会いは、誘われて講話会に参加したことです。きっかけは偶然でしたが、魅力を感じて通い続けることになり、それは自分ではっきり選んだことでした。
これまで自分でいろんなことを選んできたと思っていましたが、実はそういう環境にいることは偶然だと気づきました。コロナで、これまでの価値観がひっくり返るかのように、外に目を向けて動いていたのが、われに返ったような感覚があります。わかちあう中で気付きが深まり、コミュニオンでの学びや鈴木先生の

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2021年

わかちあい会

「愛するゆえに」 
分かち合い会の前日がちょうど父の命日でした。毎年、毎年この時期になると「今日は、父が死ぬ2週間前だ。そうとも知らずにのほほんとしていた。」とか「死ぬ一週間前だ。つまらないことでけんかになったな。」とか「3時24分、突然息が止ったんだ。心肺蘇生をして必死だった。8分くらいして救急車が来たな。」・・・など5年間やり続けてきた自分を見つけました。時刻や自分の気持ちまで何一つ忘れようとしなかったけれど、瞑想をしているうちに、「ああもういいなあ。お父さんとは繋がっているんだし。もう忘れても・・・」という気持ちになりました。
・お祖母さん、お母さんから愛されたことを伺っているうちに、愛すること、愛されることは、いつまでも残るものなんだと思いました。これから私も大切にしていきたい。そうとはいっても、イライラしているときに人にぶつけずに過ごすようなことの積み重ねではないかと感じています。
・何回か経験してきた分かち合い会、いつも参加されている方がいらっしゃるとほっとし、初めての方のお話に「おおっ・・」と思い、分かち合い会というものは友人たちとの場とも似ているようで違うし、職場の関係とも違うし、おもしろいと感じました。
私にその死を知らせることなく、ひっそりと亡くなった祖母のことを想いました。生前の祖母は私を両親以上に可愛がり、愛情を注いでくれましたが、時にその愛情が重すぎることもありました。しかし、亡くなって20年以上経った今でもその愛情は温かく私を包んで見守ってくれていることを、わかちあい会に参加された皆様から頂いた言葉と共に感じることができました。

「愛するゆえに」 
分かち合い会の前日がちょうど父の命日でした。毎年、毎年この時期になると「今日は、父が死ぬ2週間前だ。そうとも知らずにのほほんとしていた。」とか「死ぬ一週間前だ。つまらないことでけんかになったな。」とか「3時24分、突然息が止ったんだ。心肺蘇生をして必死だった。8分くらいして救急車が来たな。」・・・など5年間やり続けてきた自分を見つけました。時刻や自分の気持ちまで何一つ忘れようとしなかったけれど、瞑想をしているうちに、「ああもういいなあ。お父さんとは繋がっているん

わかちあい会

2021年

わかちあい会

「輝いて生きる 」
日々の暮らしの中で、一瞬一瞬に感じる心の喜びを大切にしていきたいと思いました。それは、子ども心に戻って、自然体でいられるときに感じられるのかなと思いました。
ことに、コロナの状況下で、与えられ生かされている生命に感謝しながら、自分らしく生き生き生きることが幸せに生きることだと実感しました。皆様の気づきを伺いながら、一つ一つが自分の中の深いところに触れて、明日への元気をいただきました。ありがとうございました。あたたかな心安らぐ場を作ってくださった担当の皆さまにも感謝しております。★・参加者の方々の分かち合いから、「力まない」、「自然体の自分」、「自分と調和する」という言葉が、深く心に響きました。自然体の自分が喜んでいる瞬間を見逃さないことも大事ですね。思い通りにならない毎日の中にある、一瞬一瞬の喜びを見逃さずに捉えることは、苦しい日常を生きる糧になると感じました。会終了後、実は生き生きとしている私は、意外にもっとあったじゃないの、と笑ってしまいました。分かち合い会は、何気ない日常の小さな喜びの瞬間を思い起こさせてくれる、私にとって大事な時間だと改めて思いました。今月は申し込みに間に合わず、参加を諦めていましたが、追加開催を企画していただき、また申し込みも直前まで受け付けということもあり、参加が可能となりました。企画して準備してくださったアニメーターの方々、事務局の方々に本当に感謝しています。ありがとうございました。
・瞑想の後、否定的なことも含めいろいろなことを感じている自分の心を見つめ、波立っている自分の心を抱いている絵を描きました。無意識のうちに描いた絵ですが、とても大切な絵になりました。
・自分の求めている調和というものは、一瞬なんだということを認めることができました。あきらめることができました。いざこざの後、一瞬の調和、また葛藤・・・。イガイガしていればいるほど、もしかしたら調和の質もよくなっていくのではないかと思いました。
・2か月ぶりのわかち合いでした。考えこもうとすると一人になろうとするのですが、人と分かち合っていくうちに、自分の気付きもますます深まるし、気付かなかったことを発見してもらえる。人といるのっていいなと実感しました。
・自分の中の無を一生懸命どうにかしようとしていましたが、参加者の無を分かち合ってもらって、無の良さに触れることがでできました。

「輝いて生きる 」
日々の暮らしの中で、一瞬一瞬に感じる心の喜びを大切にしていきたいと思いました。それは、子ども心に戻って、自然体でいられるときに感じられるのかなと思いました。
ことに、コロナの状況下で、与えられ生かされている生命に感謝しながら、自分らしく生き生き生きることが幸せに生きることだと実感しました。皆様の気づきを伺いながら、一つ一つが自分の中の深いところに触れて、明日への元気をいただきました。ありがとうございました。あたたかな心安らぐ場を作ってくださった担当の皆さま

わかちあい会

2021年

わかちあい会

「いま、ここで」
皆さんのわかちあいが繋がっているように感じました。「いま、ここ」にいることができれば、幸せを感じることができ、豊かさとなっていくのだと思いました。ありがとう
ございました。
瞬間毎の出来事に、どんな言葉を発するか、どんな行動をとるかの選択肢は一つだけでなく、何を選択するかは自分次第なのだなと感じた出来事について話しました。自分の中に起こる自動反応に振り回されず、小さな出来事に対しても意識して自分で選択を続けていくことは、「いま、ここ」で自分の生き方を選んでいく「幸せは私の手の内にある」ということなのではないかと思いました。“この時”を逃してはいけないという焦りがあった時もありましたが、逃すしか方法がなかった時があったからこそ、それが今につながっている・・・と今は思えます。

「いま、ここで」
皆さんのわかちあいが繋がっているように感じました。「いま、ここ」にいることができれば、幸せを感じることができ、豊かさとなっていくのだと思いました。ありがとう
ございました。
瞬間毎の出来事に、どんな言葉を発するか、どんな行動をとるかの選択肢は一つだけでなく、何を選択するかは自分次第なのだなと感じた出来事について話しました。自分の中に起こる自動反応に振り回されず、小さな出来事に対しても意識して自分で選択を続けていくことは、「いま、ここ」で自分の生き方を選

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2021年

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「自分の期待を消してみましょう」
今回のテーマは、仕事で新人教育を任されていた時の自分を振り返ることに繋がりました。当時、新人に期待を寄せることは当然であると踏まえていた私は、期待を寄せれば寄せるほどに新人との関係性がギクシャクすることに悩んでいました。そのような時に鈴木秀子先生の今回のテーマと言葉を知り、新人に期待することを諦めてみました。そして新人に期待を寄せることは、自分が新人にこうあって欲しいという理想や欲望を押し付けていただけだったことが分かりました。その気づきを得てから、新人とのギクシャクした関係性も解けてきたように思います。今回のわかちあい会で、自分中心の相手への期待は、相手を苦しめ、自分も苦しめることになることを改めて自覚しました。
相手に対する期待というのは、自分自身に対する思い込みを相手に対しても押し付けていることのように感じました。「~であるべきである」という思い込みを一度外してみることで、相手に対する見方も、そして自分自身に対しても、考え直すきっかけになると感じました。実生活のなかで、男性と女性の考え方の違いを改めて感じていたなか、今回は参加7人中、男性6人女性1人という人数比で、そんな機会に、男性、女性の考え方に触れることが出来て自分の考え方が男性のトラワレ的考え方だと認識できたような気がします。
だから直していくとかではなく、自分の考えがそういうものだということがわかってよかったと思っています。

「自分の期待を消してみましょう」
今回のテーマは、仕事で新人教育を任されていた時の自分を振り返ることに繋がりました。当時、新人に期待を寄せることは当然であると踏まえていた私は、期待を寄せれば寄せるほどに新人との関係性がギクシャクすることに悩んでいました。そのような時に鈴木秀子先生の今回のテーマと言葉を知り、新人に期待することを諦めてみました。そして新人に期待を寄せることは、自分が新人にこうあって欲しいという理想や欲望を押し付けていただけだったことが分かりました。その気づきを得てから

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2021年

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「心の風向きに手をかざす」
好きか嫌いかとか、正しいか悪いかとか、そういう2択って実はとてもどうでもいいことなように思う。どうでもいいというか、私たちが生きている世界で、ものごとの考え方として「はい」か「いいえ」といった極端に分かれていないというか、「はい」の対極に本当に「いいえ」があるかというのも怪しい。でも、そうは言っても、よくわからないまま進むわけにもいかなくなって、とりあえず何かしらの枠組みにはめ込んで考えないといけない時もある。だけど、そうやってはめ込み続けていくと、どんどん安っぽくなるし、本来持っている温かみがなくなっていくような、そんな感じもする。時には突き放してみるのも大事だと思う。どっちが大切とかじゃない。そういう極端な考え方はやめたい。自分の好きか嫌いかを疑う必要はない。自分の感性を疑いだしたらどうしようもない。それより、なぜ好きなのか、なぜ嫌いなのかを考えた方が有意義だ。他者についてわかろうなんて、雲を掴むようなことだけど、この自分の感性についての深掘りは、誰にも邪魔されることのない、一番実態を握ることのできる行為だと思う。今回のわかちあい会でそんなことを考えました。
人に対してイライラしたりモヤモヤした時、落ち着いて自分の内側を探ってみると、知らず知らずに相手に対して期待しているものがあり、それは私の都合なのだなと気づきます。すべての人は自由にその人らしくあって、それはいいとか悪いとか言えるものでもないのですよね。目の前にいる人から何は受け取り、何は手放すのか・・・どんな立ち位置で相対するのか・・・それを決めるのは私自身。そして、その人との係わりの原点に立ち返りどうして係わりが生まれたのか、そもそもの理由から再出発すると、モヤモヤ、イライラに振り回されず、すっと進んでいけることもあると思いました。狭量で、人に対してちょっと違和感を持つともう付き合えないような感覚がありましたが、違和感はその人の一面であり、それ以外のところに目を向けることもできるし、なぜ違和感を持つのかを自分の中に探ってみることもできます。相手に執着しすぎることなく、自分の問題として受けとめ「さあ、私はどうする?」に対する選択肢をたくさん持てるようにしていきたいなと思いました。
ご一緒した皆さんが具体的な体験を通してのお話をわかちあってくださり、多くのものをいただいた時間でした。ありがとうございました。

「心の風向きに手をかざす」
好きか嫌いかとか、正しいか悪いかとか、そういう2択って実はとてもどうでもいいことなように思う。どうでもいいというか、私たちが生きている世界で、ものごとの考え方として「はい」か「いいえ」といった極端に分かれていないというか、「はい」の対極に本当に「いいえ」があるかというのも怪しい。でも、そうは言っても、よくわからないまま進むわけにもいかなくなって、とりあえず何かしらの枠組みにはめ込んで考えないといけない時もある。だけど、そうやってはめ込み続けていくと、どん